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前置き
メインストーリー中、ラスボス戦~エンディングには解説役がいません。映像演出だけを頼りに、何が起きたかを推測する必要があります。
当記事ではラスボス戦からエンディングにかけての流れを追い、考察いたします。なにぶん作中の説明が少ないものですから、確定的なものではないことをご承知ください。
また「雨の原因と澱みの原因は別」ということも、先に知っておいてください。特に後者は、ストーリー中に説明されることがありません。澱みの原因については別記事といたします。
4章前半までのあらすじ
湊への道中、不二の霊峰(ふじのれいほう)の麓で、主人公は「種」と呼ばれる小箱を拾い、不思議な楽士「六科」(むじな)と出会います。主人公は獣(けもの)に襲われ死に瀕しますが、六科が心臓に種を埋め込むことで、一命を取りとめました。
湊に到着した主人公は、種がもたらすからくりの力を駆使し、獣を狩り続け、湊の人々の信頼を得ました。主人公の存在が大きな助けとなり、湊は活気づいていきました。
あづまの国は今、本来おとなしいはずの獣が暴れる危険な土地です。獣が暴れる理由は天つ糸(あまついと)不足でした。土地が澱み、天つ糸が枯渇したせいで、獣が飢え、異常な行動を起こしていたのです。
主人公は獣の脅威を退けてきましたが、ついに倒れました。心臓と同化している種が変調をきたし、いつ壊れても、いつ死んでもおかしくない状況にあるとのこと。
目を覚ますと、雨が降っていました。長い、長い、不気味な雨です。
六科の正体と輪廻
六科が語ります。雨と、世界の滅びと、自分(たち)の正体について。
- 雨は世界を水没させて滅ぼす
- 雨は獣の仕業
- この世界は滅びと再生を繰り返してきた
- 六科は雨の獣に敗れた獣狩たちの残滓
長雨の名は「千日雨」。世界全体に天をも飲み込むような大洪水を起こし、人も獣も大地も、あらゆるものを沈めて滅ぼす終焉の雨です。
ワイルドハーツの世界は、大地が水に沈み、人や獣が再興し、また水に沈む……このような歴史を何度も何度も繰り返してきました。六科はこのサイクルを「輪廻」(りんね)と呼んでいます。
六科の正体は、かつての獣狩たちの意識の集合体です。彼らは千日雨を止めようと獣に挑み、敗れました。そして次に再起する世界のため、次に同じ役割を全うせんとする獣狩のため、記憶と想いを種に宿しました。主人公が使うからくりの力は、かつて彼らが使っていた力です。
今がまさに輪廻の区切り。滅びの運命に立ち向かえるのは、種を宿した主人公だけです。
雨の湊
湊の人々も長雨を不審に思っていますが、何も分からないまま屋根の下で過ごしています。また、誰もが主人公の体調を心配しています。倒れたと聞いて、気が気でないようです。
ここでは、少し変わったことを話すNPCをピックアップします。
紅玉
「雨と獣の伝承」を教えてくれます。現状をあまりにも正確に表している伝承です。まるで輪廻を知っているかのように。本当に何者なんでしょうね、この人。
玉かづら
「大陸の聖典に書かれた世界を滅ぼす洪水の話」について語ってくれます。旧約聖書の逸話「ノアの方舟」そのままの話です。
信光
「雨の日でも出せる船」を検討しはじめました。実は彼の祖先、千日雨の生き残りです(書簡・津守家系譜を参照)。彼の一族は輪廻において、方舟を作り、湊の人々を生き残らせる役割があったのかも知れません。
氏繁
「主人公がどこかに行ってしまうこと」を心配しています。不安と寂しさが口から駄々洩れになっています。
不二の霊峰
もうじき止まる種と命。世界の終わり際。誰にも知られないまま、一人、霊峰を登っていきます。
途中、かつての獣狩たちの声が聞こえます。無念を嘆いた声。希望を託す声。今度こそは獣を狩り、雨を止めたいと願う、執念の声。輪廻の果てに折り重なった、種に宿る声です。
険しい崖を登り切ると、雲の上に出ました。雲海の下には当然雨が降り続いています。ここは霊峰の頂。雨の獣が住まう場所。すべての獣狩たちが敗れた、終わりの地。
アマツヲロチ
雨の獣の名は「アマツヲロチ」。別名・世界樹(換金素材の説明文参照)。幾重もの幹と枝をその体とした、あらゆる季節を操る、巨大な龍の獣です。
余談ですが、あづまの国には龍神信仰があります。「春霞の古道」の竹林に龍を祀った社があります。その近くには龍神と霊峰に関する由緒板もあります。霊峰に龍がいることは、こっそり仄めかされていました。
アマツヲロチを討伐すると、無数の蝶が現れました。龍の正体は常世蟲の群体だったのです。常世蟲こそが千日雨の獣でした。
絶望的な状況です。蝶の群れなんて討伐できるわけがありません。仮に方法があったとしても、心臓が止まりかけている主人公には無理な話でしょう。雨雲はまだそのまま。何も解決できていません。
常世蟲の群れに囲まれる主人公。地面に穴が開き、落とされてしまいました。
霊峰の内
主人公が落とされた先は「霊峰の内」。ここは 常世蟲の巣 です。常世蟲の群れが吹き抜けから出入りし、天井には卵があります。この状況を見た六科は、驚きの声をあげます。
これは「世界の天つ糸の循環が止まっている」という意味です。この状態を「天つ糸=血液」として人体で喩えると、心臓(霊峰)に血栓(澱み)が詰まっているような状態です。危篤もいいところです。
なお、湊には「魂=天つ糸」「炎=常世蟲」となぞらえた死生観があります(1章で言及)。天つ糸の循環と死生観のつながりについては、アマツヲロチの図録からも見出せます。六科はこの死生観をもとに、霊峰の状況を喩えているわけです。
六科が驚いたということは、ここは、かつての獣狩たちが誰も到達したことのない場所ということになります。この先の物語は、過去の輪廻に例がない、主人公だけの物語です。
おびただしい数の常世蟲の死骸。
腐り、溶け、異臭を放つ卵。
明らかな異常事態です。常世蟲にとって望まぬ状況であることは間違いありません。理由は澱み、すなわち天つ糸の枯渇でしょう。常世蟲も他の獣同様、飢えていたわけです。
常世蟲は獣の死骸から天つ糸を回収する生態です(1章で言及)。獣が飢えている今、その死骸からは天つ糸が回収できません。加えて澱んだ天つ糸を回収しようものなら、巣はどんどん汚染されます。結果、この惨状です。
雨を降らせる理由も、巣の澱みを押し流すことです。問題は澱みを流すのに必要な水位が、雲の上、霊峰の山頂付近だということ。世界を丸ごと沈める水位となりますが、恐ろしいことに、常世蟲にはそれを実現する力がありました。
通常の獣は、飢えると縄張りを変えます。しかし常世蟲は、大事な卵のある巣を離れられません。無茶をしてでも澱みを流すしかないわけです。これが千日雨の真相でしょう。
これまで人も獣も、ただ生きるためにぶつかりあってきました。世界を幾度も滅ぼした千日雨の獣も、例外ではなかったのです。
アマツヒト
まだ生きていると思しき卵の真下で、人の姿をした常世蟲の群体が立ちふさがります。ところどころ赤い蝶が混ざっていますので、澱みの影響もあるでしょう。
- なぜ戦うのか
- なぜ人の姿なのか
分かりません。ただ、若干の推測は可能です。
なぜ戦うのか
つまり、常世蟲には思惑があるのです。それが何かと言われたら、やはり「巣の澱み」でしょう。実際、アマツヒトの図録ではそれらしいことに触れています。
生命は流転せず、澱み沈みて地の底に溜まる
天つ糸の循環が止まって澱んでいる
押し流そうとする雨
千日雨は澱みを押し流すことが目的である
己の腕ですべてを甦らせねばならない
千日雨を止めたければお前が澱みを流し環境を戻せ
図録の意味はこのようなところでしょう。ここに常世蟲と主人公の妥協点が見出せます。それぞれの立場を整理すると、次のとおりです。
常世蟲
目的:巣の澱みを流す
手段:雨を降らせる
主人公
目的:雨を止める
手段:巣の澱みを流す ← New
常世蟲からすれば、巣の澱みさえ押し流せれば良いのです。他に手段があれば雨は不要です。それを実現できるかどうか問いかけているのが、アマツヒトの図録の内容だと思われます。
互いに妥協点があるのですから、この最終戦は「常世蟲と主人公の対話」とみなすことができます。「どちらが澱みを流すか」を決める戦いというわけです。
そう考えると、これがなぜ戦闘になっているのか、かえって分かりませんが。
なぜ人の姿なのか
サイズの問題
ここは常世蟲にとって大事な巣です。巨大な姿では自分たちが巣を壊してしまうため、適切なサイズが必要となります。それが人の姿だったのかも知れません。
人との対話
前述のとおり、この戦いは「人と獣のどちらが澱みを流すか」決めるものです。戦闘の体裁ですが、本質的には話し合いです。よって「人と対話する姿」をとったのかも知れません。
人への恨み
ここでは詳しく言及しませんが、澱みの原因はおそらく人の技術や戦争です。常世蟲がその原因を知っているとしたら、目の前の人間に複雑な感情があることでしょう。「こうなったのはお前たちのせいだ」という訴えが、あの姿を取らせたのかも知れません。
苦痛の訴え
アマツヒトの中には澱んだ常世蟲が混ざっています。この決戦ステージ自体も澱んでおり、ときおり「澱み深き獣」の狩り場と同じような赤紫のモヤが湧きます。
澱み深き獣とは狩り場の澱みに取り込まれかけ、体内の天つ糸に強い異常をきたした獣です。霊峰と常世蟲も近い状態にあると言えます。だとすると、苦痛の訴えと慈悲の介錯を求めて人の姿をとったのかも知れません。
太古の記憶
先の話ですが、霊峰の澱みを流すために使ったからくりは、夏島に残る太古の技術「天つ岩殿」と同一のものと思われます。また、天つ岩殿が記された書簡に「岩殿はふるさとにそびえし山」という一文があります。
天つ岩殿は元々霊峰に関係している可能性があります。常世蟲は天つ岩殿の存在を知っており、獣狩の姿を模して「思い出せ」と訴えていたのかも……。
獣狩の怨念?
よくある考察の一つですが、個人的にこれはないと思っています。理由はいくつか。
前述したとおり、アマツヒト戦は「人と獣のどちらが澱みを流すか」を決める戦いです。人の怨念が獣の側に立つというのは、ノイズとして大きすぎます。
ワイルドハーツは全体を通してテーマや設定が一貫しています。人と獣が生存をかけた話の中、最後だけ軸がブレるというのは考えにくいです。
怨念が獣や自然に影響するという話は、それまでどこにもありません。最後の最後で新しい設定が湧くのはあまりに唐突です。
かつての獣狩の怨念と言える存在はいますが、それは六科です。主人公の種に宿っています。敵対する理由がありません。
霊峰の内に辿りついた獣狩は主人公ただ一人です。かつての獣狩は来たことがありません。ここに獣狩の地縛霊など残りようがありません。
仮に、人の魂が天つ糸に宿って霊峰に集まるものだとしましょう。かつての獣狩の魂はかつての千日雨に流されています。今の世界で集まりようがありません。
「澱み」に怨念や無念を結びつけている方もいるかも知れませんが、「澱み」とは停滞した天つ糸の状態や、それに毒された土地や獣を指す言葉です。ネガティブな人の感情や魂とは直接関係ありません。
最期のからくり
アマツヒトを介錯した主人公は、新しいからくりを繰り出します。
このとき、一匹の常世蟲が主人公の左手にとまります。応援のためか、監視のためか、不安のためか……理由は分かりませんが、もはや、彼らに敵対する意思がないことは明らかです。
主人公が繰り出したからくりは、巨大な花のようなからくりでした。内部で歯車や羽が回るこのからくりは、夏木立の遺跡で起動した太古のからくりによく似ています。木製か石製かの違いはありますが。
![]() |
夏木立の島の遺跡のからくり |
このからくりの名前は「天つ岩殿」。「千古の記録」と題された書簡に記されています。書簡の内容は次のとおり。これは天つ糸を集め、流れをコントロールし、上に向かって放つからくりです。
余談ですが、この書簡には「ふるさとにそびえし山」という記述があります。不二の霊峰も古くは獣狩の聖地とされていました。天つ岩殿は本来、霊峰で使用されていたか、あるいは霊峰そのものを模したからくりなのかも知れません。
私が思うに、これらのからくりの機能は「天つ糸の流れを整える」という点で共通しています。向き・精度・規模・効率の違い等で差はあると思いますが、いずれも獣狩のわざの基礎をなすものでしょう。
「天つ糸の流れを整える」と言えば「龍穴の解放」も同じです。
龍穴を解放する際、六科は「絡まり滞った天地の脈を押し流してやれ」と言っていました。今は千日雨を止めるため、霊峰の澱みを流すために、このわざを必要としています。最初から最後まで、やるべきことは同じだったというわけです。
霊峰内部の中央、常世蟲の卵の下で、「天つ岩殿」が起動しました。輝かしい青緑色をした、大量の天つ糸が昇っていきます。
澱みが押し流され、天つ糸が吹き抜けていきます。
しかし、心臓を動かしていた種に限界が来ます。
雨が止みました。湊にも日が差し、人々の日常が戻ってきます。
獣に焼かれた大桜のそばを、天つ糸が流れていきます。 獣たちも穏やかです。獣は本来、人と共存できる存在です。飢えなければそうそう暴れることもありません。
獣に焼かれた大桜が、満開になりました。あづまの国が自然を取り戻しました。これは、それだけの時間が経ったということでもあります。
場面は再び霊峰へ。ここは主人公が種を拾った場所、すなわち、輪廻の獣狩の最果ての地です。かつて千日雨に挑んだ獣狩たちは、この場所で朽ちていきました。主人公もここで朽ちれば、種の一部となって次の獣狩を待つことになります。しかし――
人と獣がただ生きようとした物語は、これにておしまい。解き放たれた命の糸は、新しい世界を織りなしていきます。
余談
主人公が生き延びた理由
阿川末宇多
阿川末宇多・壱
玉響うつそみ暮れて ただ澱に身を尽く
玉の緒の夢忘れて 長からむ巡りを
阿川末宇多・弐
九十九奇しく狂えど よに見ゆるなく
月詠は何処までも
壱と弐の歌は、永遠に命や歴史が滞ることを歌っているようです。輪廻による無情を表しています。ところが、参だけ趣が違います。
阿川末宇多・参
玉鉾の平けし空に みなと不二や望む
魂結び績みなす調べ 逆に水曲越えて
私は古文に詳しくありませんが、これは輪廻からの解放、エンディングそのものを歌っているように読めます。どのような意図があったにしろ、この詠み手、只者ではありません。
「阿」は川の曲がったところを意味します。「水曲」は水流が曲がったところの澱みを意味します。「宇多」はおそらく歌。「阿川末宇多」とは「川の曲がり(澱み)・終末・歌」という意味で、澱みと輪廻を喩えているものと思われます。
余談ですが、この「阿川末宇多」は、エンディングのスタッフロール前半で流れる曲の歌詞です。
主人公の礼
実は考察を見送っていた謎があります。「常世蟲が主人公を認めた理由は何か」です。
常世蟲には思惑があったと申しましたが、主人公に対する信用がゼロなら巣に招くはずありません。常世蟲は、主人公に一体何を見たのでしょうか。
それは「礼」だと思います。
本作において獣に畏敬の念を示している者は、主人公ただ一人です。あづまの国には獣を信仰する文化があるものの、害をなす獣となれば話は別でした。かつての獣狩だった六科すら、獣を人の敵か、主人公の経験値くらいにしか見ていません。
主人公だけです。討伐した獣の前で喝采をあげることもなく、神妙に、厳粛に、その命に礼を尽くすのは。常世蟲が主人公を特別視した理由はここにあるのかも知れません。
獣に認められ、巣に招かれることで、初めて雨を止めることができました。獣をただの敵とみなす者には不可能な所業です。輪廻を断ち切るための最後の1ピースは、より強い力でもからくりでもなく、真摯な畏敬の念だった――
そう考えると、礼こそが主人公のもっとも重要な個性であり、唯一無二の英雄性であり、ワイルドハーツという物語の核心だったのではないかと思います。
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